昭和45年11月02日 朝の御理解
御理解 第99節
「無学で人が助けられぬと言ふ事は無い。学問はあっても真が無ければ人は助からぬ。学者が身を食ふと云う事がある。学問があっても、難儀をして居る者がある。此方は無学でも皆おかげを受けて居る。」
無学で人が助けられぬと言ふ事は無い。学問はあっても真が無ければ人は助からぬと云う事は、真が無ければ助けられぬだけではない。自分自身が助からぬと。真が無ければ。どうでも、お道の信心させて頂くならば、真の追求が求められる訳です。自分自身が助かる為にも、いわゆる真の人を目指さなければならん事が分かります。
昨日の朝、ある青年お参りにと云うよりも、来た訳です。初めから僕は、先生をいじめに来たのじゃありません。又は、ひやかしに来たのでもありません。と言いながら、便箋に何かを書いて、これを見てくれと云うの訳である。そして、その素晴らしい事を書いておる。人間は、神の分身である。この事に間違いはないかと。初めから、まあその、そうゆう書き出しである。
神は、人間は神の分身であると、いわゆる分け御霊であると云うんです、ね。信ずる心があれば山をも動くとゆう事がと思うが、それはどうかと。斉藤又三郎とゆう、いわゆる金光大神のね、教祖さまの御直信のお伝記の中にありますねぇ「わしが裏の庭に立って、山をにらむとその山がよちよちと言うて後へ下る」といわれる様な事が書いてあります。なるほど、山が後へ下ると。いわゆる信ずる事によって、天地が自由になると云う、まあ私が何時も使う言葉で云うなら、そう云う事を言ってる訳なんです。ね。
そして人間だけが神の分身ではなくて、あらゆる動物植物も同じ事、これはどうかと、こう云う訳なんです。なる程それはそうであるね。地球上に生存する、云うならば、生きとし生ける者、それはなる程神の分身と云うても良いであろうね。人間が人を殺しても罪にはならないと思うが、どうかと最後にそう云うひどい事が書いてある。人間が人間を殺すと言う事。それでこれはそのままその通りだと、何時の間にこう云う様な事が分かったのかと私が申しましたら、僕は小さい時からこの事を考え続けてきた。
母親が金光さまの御信心するから、やはり、そのこの事はやっぱり僕の小さい時から、有ったから、そう云うなんか大変厚い宗教の本を三冊読破した。いっぺん先生それを読んでみなさい僕がその本を貸してあげる。と云う訳である。だから僕は、こうやって参って来て、皆んなが神さまを拝んだりこう御祈念をしておるのがおかしゆうてたまらん、信じさえれば山をも動くのに、何がそのお参りしたり拝んだりするのかと云う訳なんです。ね。云わば本を読んでそう云う事が分かったと云うのである。
自分は、まず頭で分かる事だけが分かって、このまあ信心とは云わない、宗教とは云わないで、それを実行に移して行きたいと云った様な事を言っております。まあ、甘木の初代がある方に対してやはりそのまぁ、頭のよい人なんでしょうねえ。信心者の中にもね、無条件に只、神さまを拝んで助けてもらうと理屈なしに、素直に教えに従順であると云う所から入って行く人と、頭から入って行く人と。
心から入って行く人頭から入って行く人と、二通りがある。どちらがどうと云えないと云うて、お話をなさった人があります。この人なんか正しく、云わば頭から入って行こうと云う訳なのです。非常に子供の時から、その青年は頭が良いちゅう評判じゃった。私はその事を聞いておる。一番最後に、人を殺しても罪にはならないと云う様な事に対して其処ん所は、私は、まぁだそんな様な気もする。
けれども、ハッキリ答えられないと、云うたら、「僕はこれぎりで、もう此処へは参りません。」まあ、そう云う事に対して、反事が出来んごたるならと云うのでしょう。少し、ノイローゼ気味じゃないかと思ったですね。ズケズケとそう云う事が云えると云う事は、ね。私はそう思いましたけれども、結局まあ頭が良過ぎるかどうか知らんけれど頭から入ったと云う訳なんです。
高校時代にも、その人は一辺参って来てから、そんな事を云うた事があった。けれども、やっぱり参って来ている。まあ、参って来たと云う訳じゃない。そう云う風な質問を持って来た訳なんですけれどね。救いが無いなあと思いました。もうこれは理屈じゃない。やはり本当に身を以って、情を以って願って行くより他にないなと、分かる所は分かっての事である。うちの母親なんか、何年参ったり、拝んだりしても僕の云う事が分からないと。けれどもね、僕はこう云う素晴らしい事が分ってるけれどもね。
私はこう云う事、解かると言う事は一生涯出来ないだろう、本当な事が分かってしまうと云う事は、分った所には、もう分らない壁が此処に有る事に気付くのだ。それが信心者に取っては、ひとつの楽しみでもある。ここ迄分かったから、是で良いと云う事は決してない。けれども、確かにあんたが此処に言っておるやうに、信ずると云う事は山をも動くと云う事を、私も思う。それは、キリストもそう言っておる。
死人でも、その信ずる心によって、蘇らせる事が出来る。僕はキリストの聖書も読破したと云うておった。読んで頭で分かってね、いわゆる無学で人が助けられぬと云う事はない、と云う事は、無学でも眞があれば、眞の追求をすれば助かられると云う事、自分自身が助かられると云う事だけではない人をも助ける事が出来ると云う事。人間も他の動物も植物も同じだと云う事に対して、確かにそう云う事が言えるけれども、教祖さまは、人間は万物の霊長と見ておられる。
そこで、万物の霊長としてのその値打を造るって行くと云う事が眞を身に付けて行く事であり、追求して行く事である。学問があって、分かる所だけは分かって居るから、信心とはこう云うもんだと云う事がどんなに分かっておっても、人は助かるどころか、自分自身も助からない。それでは助からない。信ずれば、山をも動と云う様な事が分かっておっても、信ずる手だてと云うのは、信心によらなければ出来る事ではない。
日々の信心の稽古と言うか、ね。その体験が積み重ねられて、初めて神様をいよいよ信じて行く事が出来るのである。 私には、まあだ山を動かす程の事は出来んにしても、私が此処にのどが乾くなと思うたら、誰かがそこにサイダーを持って来ておる、そこまで来ている。私が甘いものが欲しい、辛いものが欲しいと言うたら、そこに甘いものが、辛いものが集まって来ておる。ね。その方は、分かったか分からないか、分からん様な顔しとったけれども、とにかく信心と云うのは、必ず金光教でなくても良いんだと。
それは、良いかもしれない。けれどもね、私が今言うておる信ずれば成ると云う事を実際に現して行けるのは、まあ今の宗教界じゃ合楽より他になかろうと、私が申しました。キリスト教でも良かろう。仏教でも良かろう。けれども現在のキリスト教に、仏教に言うならば山をも動かせる程しの信の力を持っている人は無い。信ずる力を持っている人は。本当に少しばかり頭がよい為に、信心を言わば。
そうゆう頭で分かる様な思い方をして、いよいよ救われない、いよいよ人に敬遠される、事になって行くとすると、その少しばかりの頭がなるほど、学者が身を食ふと云う、ひとつの実証した様なものである。その学者が身を食う事を自分自身で感じ、そして、言わば学を捨て頭を捨て、只、お道の信心で言うなら、教祖の生きられた御生き方と云った様なものがです。
素直に行の上に表されて行くと云う事からに出直さなければ、人が助からんどころか、自分自身も助かる事が出来ない、と云う事を強く感じさせられる訳であります。人が助けられると云う事、それはそのまま自分自身が助かると云う事。こう云う働きが牛やら馬やら他の動植物に出来るか。神さまは、そう云う事を許されておるかと。これは人間にだけ、しかも眞を追求する者にだけ、人が助けられる程しの力を持っておる者にだけ、与えられるものなんだ。動物でも植物でも人間と同んなじだと。
なるほど、神様がお生かしになっておる事に間違いはないけれども、人間の言わば、違いと云うのは、そこなんだ。なるほど、人を殺しても、神様はバチを当てなさらんと云う事は、どうかと云う事かと云う事に対しましてもです。それと反対の事が私は言える。人間は人が助けられると云う事、私は、その事だけしか考えない。なるほど、人を殺しても同んなじ。ようくその事を追求したら、同じ様な意味になるかも分からないけれども、教祖の神さまは、人が助かる事さえ出来さえすればと、言われた。
私は人を殺しても、罰は受けないと云う事は、本当は説明は出来なかったけれど、かの青年も人が助かる事さえ出来れば、結構であると云った様な事は、人間が人を助けられる、助けられる事によって、自分が助かるのだと云う事は、分からない様だった。実際に信心させてもらい、本当に他人の事でも祈らなければおられない、本当にあの人に助かってもらわなければおられないと云う様な心、そう云う心を起こし、そう云う心を行の上に表していくと云う事、それがそのまま自分自身が助かると云う事。
それが自分のそのまま力になると云う事を、私共は信心させて頂く者は、言うなら、心から入らせて頂いて、信心をさせて頂く者は、その事を言わば体験して行かねばならん。そこにいわゆる信ずる力、それこそ信ずれば山をも動くと云う程しのおかげ天地が自由になると云う程しのおかげが、受けられるのである。今日から、朝の御祈念に合わせて、幹三郎の病気平癒祈願と云う様な銘打っての特別御祈念が。
ご祈念の中に私夕べ、その事でまた・・・・達が具体的な恐らく練られたのだろう思う、それで聞いて居りませんけれど昨日、信徒会長が皆様に発表して居りますのはその様な事である。言うなら一心乃眞を捧げてね、願わせて頂けるとゆう今日の焦点に、ピッタリした信心の稽古の対象がそこに出来た訳である。是は皆さん、まあ言うならば私の子供の事ですから、それを皆さんが本当に合楽全体をあげて。
祈り添えをして下さるとこんなに嬉しい、又、こんなに心強い事はない。ね。けれども、それよりももっと、私が嬉しいと云うのは、その事によって最近言われておる願いの信心と云うものが確くなるものだと確く結果が出て来るんだと。一心乃眞を捧げて願うと云う事は、この様な有り難い力強いものだと云う事を言うなら、今日の御理解人が助かると云う事が自分自身の助かりになると云う事を、確認してもらえると云う事が、私には、よりもっともっと有り難い事なのです。
皆さんがそう云うおかげを受けて下さる事が。人情から言うと、自分の子供の事を皆さんがこの様に親切に親身に、御祈念会でもして下さろうと云うのですから、これは人間的に嬉しい事である。有り難い事だと思う。昨日、御月次祭、もうすぐお月次祭とゆう時に、あのー久富勇さんがお供えをここへ持ってみえて「先生これは、子供が幹三郎ちゃんにと言うてから、おみやげを買うて来とりますから」と。
学校が同じなんですよ。それで、今度修学旅行に行って昨日帰って来た訳なんです。それでお土産をと。私はもうその場で開けて見ました。なしか知らんけれども、そのね、神ながらに幹三郎君に買うて来たと云う、そのそれがね。どう云う御神意があるだろうかと云うものを早く知りたかったから、もう装束つけて出るばかりになっとったけれども、その実際ほんなこう幹三郎にお土産の方を此処でこう開けて見た。
開けて見て驚いた。神さまの働きって一分一厘間違いがない事だなあと、小さいこの位ばっかりの机の上に置く様な置き物である。それが、東海道五十三次の絵をその形にしてある、一番初めに私感じた事はね、その全体、ほとんど全体にと言う程に、富士の山が後ろにバックになっておると云う事である。その前をあの駕籠、昔の駕籠かきがね、駕籠に乗せて、駕籠をになっておる所である。そして、その富士山の横に大きい水車小屋があって、その水車がこうこう回る様になっておる。そうゆう置き物であった。
だから、私はお祭りがすんでから、幹三郎を呼びましてね。「ちょいと幹三郎君、これはあんたに久富君がお土産ち言うて買うて来とるが、素晴らしい事ねぇ。神さまがこう云う物の中にも、こう云う様にして、お働きを頂いておる事が分かるじゃないか。この事をどう云う様に思うか。この中に御理解があるが」と言うて、私が申しました。考えよったが「分かる様な気もするけれども」と言うて・・・・富士山と云うのは、合楽の教会の事であろう。まあ言うなら、親先生の事であるかもしれん。
いつも、私が日本一日本一と日本一を目指しておる。富士の山を目指しておる。と云うそう云うバックボーンと云うものがね、あると云う事だけでも心強い。此処に駕籠に、もう否応なしにね。駕籠にかつがれて行くのが僕だろう、幹三郎君だろうと。僕は医者になんか行かんでんよかち言ったっばって、もうどうにも、こうにも出来ない勢いで今度、病院に行く事になるのは、丁度この駕籠で送られて居る様なもんじゃなかろうか。
水車小屋と云うのは、水が無からなければ回らない。お恵みの水が是にかかりさえすればです。中では例えば麦なら、製粉が出来る。お米なら精白が出来る。いわゆるママになる元が此処に出来るだと、もうこの様に素晴らしい御理解がこの中にあるのだと言うたらえらい自分でも感激しとる。昨日、委員長が発表しておられた様に、ひとつ合楽全体をあげて、打って一丸になってその事を幹三郎と云う事ではなくて。
合楽の信心と云う様なね。言うならばね。合楽から、初めて病院に入院すると云う人が、出来たと云う事なのですから、まあそう云うひとつの盛り上がりと言うか、そう云う様なものが出来て、おかげを頂いて行きたい。皆さんの言わば、勢信心、それが言わば、皆に祈られておる、皆に願われておると云う事が、本人が感じる所にです。有り難い、結果にもなる事であろう。又、心強い事でもあろうと、こう思うのです。
その様にしてです。そんなら、今日の焦点であります所、の一心乃眞を、その生きた問題に表して行く。一心乃眞を捧げ尽くしてと言うとおかしい、ま捧げてね、願おうとゆうのである。しかも一人ではない。合楽全体が、同んなじ事柄に向かって、その事を願おうと云うのである。今日も私その事をお礼申させて頂きよりましたらね。はっきりもう、それこそ、墨痕あざやかにそれこそ茂 さんが書いた字よりももっと素晴らしい字でね「久保山茂」と頂いた。ね。どう云う事であろうか。
久保山と云う事は、久しく保つ山と書いてある。久しく保たせてもらうと云う事は、徳であろう。その山、山と云う事は修業と云う事である。皆が力を受ける為の修業だと。茂と云うのは、私は自然にねるとも、草冠にんると云う事も、やはり繁昌の意味だと思う。茂っていくと云う意味だと思うた。ね。この様にして、合楽の信心が鍛えられていく。合楽全体が信ずる力をその様にして、鍛うて行くひとつ切っ掛けを下さる。
しかも今月の焦点をそのままに生活の上に表して行ける云う事は、有り難い事である。それを例えば、素直に、素直にと言うか、いわゆる、眞心をもってと申しましょうか。その事を祈り願って行く。その事の為に眞を捧げる。その事の為に修業させてもらう。とゆう生き方が出来た所にです。これは人間だけにしか与えられない、人の助かる事の言わば働きが、自分自身が助かって行くと云う事に繋がると云う素晴らしい結果を産んでいくと云う事になる。それが頂けれるのが人間。
昨日の、ここでその参って見えられました青年が、私に対して質問をしました事柄の中から、ね。今日の皆さんの御祈念の事を合わせて同時にこの九十九節を頂かせて頂きましたから、ね。本当に此処にもうひとつの力、一心乃眞を捧げると云う力、そのひとつが九十九節、九に九で支えられる時に、加えられる時に、言わば、目出度目出度の若松さまよと云う、百節の御理解じゃないですけれども、百節に持ち込んで行けるおかげを頂けるおかげをね。私は信じております。
どうぞ